YOKO'S SCENE

画家・井上よう子のNEWS。
不思議なご縁に感謝

1昨日は成安造形大学で授業でした。
日が暮れるのが早くなって、6時に授業が終わって出ると湖西の空はとっぷり暮れていました。
昨日は大手前大学授業、風景スケッチなのにあいにくの雨。場所だけ考えに傘さして回ってもらい、そのあとは教室で、学生が順にモデルになっての人物クロッキー。それはそれで和気藹々といい雰囲気でした。(でも来週もまた雨だと風景の課題困るな…と雨女の私)

先日書いた、亀高文子さん、大正、昭和にかけて活躍した女性画家の先駆者であり、赤艸社女子絵画研究所を創設し、後進の指導にも尽力された方…
そこまでは昨年賞を頂いた時に知ったのですが、今回の展覧会で、お父様が画家で、でも横浜の外国商館で外国人向けの絵を描き経済的成功は収めたものの、美術家として大成できなかった事を悔やみ、娘の文子さんに夢を託して、文子さんは自らの意志と父親の強い後押しにより、明治時代-女性が職業を持つ事ましてや画家になる事など珍しかった時代に、創立間もない女子美術学校(現在の女子美術大学)に学び、画家としての道を歩み始めた事。太平洋画会洋画研究所に入って出会い、共に学んだ優れた新進画家・与平と結婚したが、わずか3年で与平が病気で亡くなり、2歳と0歳の子供を抱え、広告の挿絵描きなどで生活を支えながら、絵を文展に出品し続けた事。
6年後に船長の亀高五市と再婚してから、アトリエも建てて貰い絵画制作に専念できるようになった事。
その五市の仕事が神戸港に転勤となり、神戸に移り、アトリエと自宅(フランク・ロイド・ライト風のモダンな建築)を新築、神戸で初の個展を県会議事堂で開催、当時洋画がまだあまり普及していなかった神戸に大きな刺激を与え、知人の娘に絵を教えてほしいと言われたのをきっかけに、そのアトリエを拠点に「赤艸社女子洋画研究所」を創設(アトリエの赤い屋根、周りの緑の草=艸から命名)以後、阪神間の婦女子の情操教育の一環として洋画の実技を教える事に大きな使命を感じるようになった事。
第一回赤艸社展は神戸三越で開催され、以後ほぼ毎年、戦争で赤艸社を閉鎖するまで、神戸の朝日ビルや大丸を会場に開かれ多くの来訪者があった事。
赤艸社は、文子に憧れるファンクラブ的画塾の性格も持っていたが、阪神間モダニズムと呼ばれる独特の文化圏の中で、ある程度裕福な婦女子の教養、たしなみとして、洋画を描ける事絵がわかる事が、ピアノが弾け手芸ができ外国語が話せる事とともに重視されるようになった(職業画家になるのではなく洋画を学ぶ)事もあり、公的美術教育機関や美術館施設が未熟な時代に、この赤艸社がはたした女子美術の普及という社会的役割は大きいという事。
再び夫を亡くし、戦争の苦難を経て、戦後、長女の住んでいた夙川に住居とアトリエを建て、晩年の30年を過ごした事。
赤艸社は、戦後男子も交え再開され、長男一郎、長女みよ子(ともに画家)が支えた事。
などなどを知りました。

…そして
これらを講演され、カタログにも文章を書かれた、文子の長女みよ子の娘=つまり孫にあたる太田素子さん(英文学者)は、なんと、私が教えている大手前大学の教授だったのです。
赤艸社賞は、文子の死後、遺族から兵庫県芸術文化協会への寄附を基金にして、毎年一人、兵庫県下で第一線で活躍し、県の芸術文化に貢献した女性洋画家を顕彰するというもの。
受賞式には遺族が出席されると聞き、お礼申し上げるつもりが、昨年の受賞式時、大学の仕事で欠席だったので、やっとお目にかかり、お礼を申し上げました。大学で、お名前も知らずに卒業式など沢山の教授達にまじり何度かご挨拶はした見覚えある先生でした。

不思議なご縁に感謝…
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